冷麺(ネンミョン)という料理を開発して伝えてきた人たちは本当に天才だ。冷麺は味がとても薄い。初めて食べた時に一口目から「旨!」ってなる人はあまりいないと思う。なんかよくわからない味だな、と食べ始める。
でも、食べ終わる頃には「なんと旨い料理なのか」としみじみ感動している。名残惜しくて、お肉の出汁が効いたスープも全部飲んでしまう。噛むように飲んでしまう。

いつどこで誰が開発したのか分からないけれど、これはものすごい哲学だと思う。
自炊する時、味噌汁にせよ炒め物にせよ、大抵は一口目で「旨!」となることを目指して作る。「美味しいもの」というのは、一口食べた時点で美味しいと感じるものであり、美味しさのピークが一口目に来るように作られている。逆にいえば、どれだけ美味しく作れたとしても、食べすすめてお腹が満たされていくうちに、舌が慣れて、一口目ほどの感動はなくなっていく。
そこへいくと冷麺はどうだ。最初はくぐもった感じなのが、食べ進めるうちに霧が晴れていくように滋味深い。美味しさのピークが後半戦に来るように作られている。お腹が満たされて舌が慣れていくと、感動がなくなるどころか、むしろどんどん美味しさを理解できるようになる。
これは単純にすごく美味しい料理というだけではなくて、そもそも僕たちが普段基盤にしている「美味しさ」とは何なのかを、根本的に問い直させてくれる。一口目的美味しさとは異なる論理の美味しさが存在することを教えてくれる。シャラくさいけど、冷麺はまるで優秀な社会学の理論のようだ。

もしかすると一口目的美味しさとは、塩や砂糖や香辛料をふんだんに入手できるようになって初めて登場した、極めて近代的感覚なのかもしれない。
調味料が大量に生産・消費できなかったら、そもそもそんな濃厚な味を作りたくても作れなかっただろう。冷麺の方も、近代的美味しさに対抗するオルタナティブを提示するために冷麺やってるわけじゃないだろうし。むしろ昔は、冷麺的論理の美味しさこそが、世界中で当たり前だったのかもしれない。
この理解が正確なのか自信はないけど、冷麺を食べるとそんなことまで考えてしまう。

冷麺はお店ごとに個性が全然違うけど、ソウルの江西麺屋(カンソミョノク)というお店の冷麺が一番好きだ。
狎鴎亭という高級エリアにあって、一杯1600円くらいするし、お店の前に黒塗りの高級車が停まっていて、食べるのにとても勇気がいる。でも、凍えるような冬に震えながら冷たいスープを完飲できちゃうくらい美味しかった。














